「聞いて聴いて、早川一光先生のラジオな話!又、来週」

更新日:2020年12月11日

「聞いて聴いて、早川一光先生のラジオな話!又、来週」第38話

第38話

 本社で丸3年経ったころ、このまま、毒にも害にもならない喋りだけで良いのか、

せっかく送り手の放送局に入ったのに、年相応の仕事がしたい。

当時の制作部長に制作希望を伝えた所、滋賀放送局で勉強したらと、何の保証もありませんが、アナとDの2足のわらじが出来ると転勤、彦根に居をかまえました。(1年後結婚、長女が生まれました。)

本社で夜9時台に担当していたアナプロ番組、最後の曲は「星影のワルツ」♪別れる事は、つらいけど・・・「時の成熟を大事に、又お会いしましょう!」とか云って終わりました。思い出としては、デビューしたての井上陽水さんをゲストに迎えた時、彼に自分の曲を選曲してもらい特集。

放送後、先斗町のお店「鳩」に行っておでんを食べ、お酒をすすめましたが下戸との事でした。後日、結婚式に祝電をくれました。(ポリド-ルレコ-ドの宣伝Nさんの手配)今としては、貴重な思い出です。

その頃、水道の水が臭いと大阪の喫茶店では、水を出さない店もあり、瀬戸内海では赤潮が発生、大量の魚が死にました。又、福岡では、深刻な水不足が起きていました。

1977年以後、琵琶湖にも赤潮が発生、見に行くと茶色く帯状になっていました。

 そんな時、彦根の市民病院で生まれた長女がハシカにかかりました。かみさんが徹夜で看病しているのに自分だけ寝るわけにもいかず、スクラップしていた赤潮関係の記事を読んでいくと、主婦や漁業関係者が琵琶湖を守れと合成洗剤追放に立ち上がったという記事を目にして、これは県民運動に発展すると確信。

 KBS京都ラジオは京都府と滋賀県を、主なエリアとして放送免許を得ており(政見放送を担当)琵琶湖・淀川水系をカバ-出来る唯一の民放。我社がやらなくてどうする。

富栄養化の問題、チッソやリン・合成洗剤等水の質と量、アオコやモの発生を取りあげる「近畿1300万人(当時)の水を考える!琵琶湖は誰のもの」放送は「琵琶湖の日」。日の出から日没まで、ヘリや熱気球・ミシガン等の船・湖岸はラジオカ-・比叡山・沖島コンサ-ト等立体的に、歴史や文化、自然の素晴らしさを検証。ドラマ「琵琶湖が死んだ日」を企画。淀川水系のリポ-ト(30石船)も交えて放送する。琵琶湖を守ろうと人間の輪でつなぐ、フィナ-レは、たいまつに火をともし地図でおなじみの琵琶湖を浮び出すと云う企画書をつくりました。

転勤して5年目の頃、対立していた会社と組合が和解。(その間遠隔地の移動は凍結されていました。)本社にアナウンサ-として転勤。交代要員もアナウンサ-、当時の制作部長はテレビに移動していました。嬉しくもあり、又悲しくもあり、当時の心境です。本社に転勤するまでに、滋賀局初の「仁扇.喜美子の土曜ワイド」と月~金「みんなでつくろう!夕焼け電リク」をつくりました。

帰ってからは、東映太秦映画村のサテライトスタジオからの生放送「ヒットヒットバラエテイ!」を担当。この年ラジオ開局記念の周年にあたり、各部所から委員を選び企画を練る事になりました。私はアナプール代表で企画委員会に参加。そして、この壮大な企画書を提出しました。アナウンサ-には、週1回泊まり勤務がありました。

午後6時頃に輪番の番組があり、ニュ-ス天気予報を最終までと、午前5時には起きて、お知らせやニュ-ス等午前10時まで勤務します。

滋賀で12時は正午、最終ニュ-ス終わりは午前0時、それを1回「正午の時報です。プ-ン」訂正は聞きません。次回からは午前0時と書く事にしました。

誰にもわかるミスですから、お叱りの電話は有りませんでした。

ミキサ-は2人、報道のバイト君が一緒です。

速報がある時は共同通信のスピ-カ-が鳴ります。

「各局さん!○○の速報原稿配信します」FAX?原稿が出てきます。

その他京都新聞ラテ部からも報道に原稿が送られて来ます。(報道の机の上に、フトンを敷いて寝ていました。)

報道不在の時は対応しなければいけません。原稿の差し替え等です。

ルビがないと読み方の確認、町は「まち」なのか「ちょう」なのか地名辞典で調べます。

夜勤の日、制作部長が来て、「制作希望なんだって?」と聞いて来ました。(当時、アナウンス課は制作部に所属)

「私に聞かないで、アナがいいか、制作がいいかは、部長が判断して下さい。」と答えました。次の人事移動で、ラジオ制作に移動。

6年かかりました。放送局にも経理や総務等現場以外の職場があります。

そういう若い人には、「希望があれば伝えないと・・」と機会があればお話しました。

ボケの大家と言われた早川一光先生も「西陣の患者さんを診察している内に、呆けの患者さんが出てきた。これは何だと診て行くうちに、いつしかボケの先生になった。」と話しておられました。

自ら意識してボケ(認知症)の大家になったのではない、歩んでいくうちにそうなったと。子供の頃、ラジオが唯一の娯楽で、小学4年生の頃からアナウンサ-になりたいと云っていたそうです。

管理職で制作に移動する人はいましたが、平社員で制作に移動したのはその時、知る限り私が初めてです。(専門職で入社の為、女子アナは配転拒否。その後何年かに1回、職場の希望調査が行われる様になりました。)

又、来週!(つづく隔週予定)



*著者紹介

KBS京都の「早川一光のばんざい人間」を立ち上げた初代ディレクター

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