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「ふたたび、暖簾をかけるまで」

更新日:2019年6月7日

「ふたたび、暖簾をかけるまで」第3話


11月

 リハビリ目的でE病院にて理学・作業・言語療法を通所で週3回。

 理学療法の先生は主人の事を理解して下さって、

 主人は野球が好きでしたからいつもキャッチボールをして下さいました。

 週3回主人は機嫌よくリハビリに取り組んでいました。

2015年1月

12月末で理学療法が終了してから「リハビリには行きたくない」と話しはじめ、

ケアマネージャーさんに相談しました。


奥様からの当時の様子や想い

9月

脳動静脈奇形の放射線治療が17日無事に成功してB病院へその後も入院させて頂きました。

退院する日が10月末と早く、病院の先生から教えて頂いたおかげで

社会保険事務所へ高額療養費、国民健康保険限度額、自立支援医療受給者証、

介護保険の申請、税務所、区役所、地域包括支援センターへ相談させて頂けました。

10月

10月に入り、夜間せん妄で退院後、リハビリ入院が出来ず、

退院したら家に私一人、主人の日常生活の看病は大変だと先生や看護師さん、

皆さん思って頂き、毎日夜は泊りで生活を主人と一緒にさせて頂き、昼間は私の事や病前に仕事をしていた話しをしているのですが、

夜になると私の事を看護師さんと間違えて廊下を歩きまわったり、

私がそばにいても「久代はどこ?」と言ったりの毎日でした。

寝る時間は私がバスタオルや着替えを家に取りに帰って3時間ぐらいの睡眠時間が続き、

週末の土・日は私の母親が車で迎えに来てくれました。

退院したらどうなるのかと不安の毎日でした。

12月

保険センターから障害者手帳が届き、私自身、主人が入院中に高次脳機能障害の家族の会に参加させて頂きました。

皆さんのお話しでは障害者手帳3級の方が多く、退院してすぐだと2級かもしれないと思ってましたが、

障害者手帳1級、介護保険要介護4でした。

現実を受け止めようと思っても涙があふれて主人の両親や私の母にTELで連絡しました。

 確かに主人の行動は退院してから目が離せませんでした。

自分が住んでいた家も分からずに頭の中は子供に戻っていました。

主人と私は二人暮らしですが、「二階にお父ちゃん、弟が寝ているよ」とか、

食事の用意の時にお漬物を焼いたり、おうどんを湯がく際に鍋に水を入れずに、

鍋にうどんを入れて火をつけたり、とても火の元が怖くて一人に出来ず、

家にいれないと思い、毎日朝ごはんを食べて夕方までいろんな所に出掛けると疲れ、

家に帰ってお風呂も一人で洗う事ができず。

お風呂を上がって8時には主人は寝ていました。

主人が寝てから、やっと私の時間がありました。


 脳の薬を退院して毎日飲んでいるので、リハビリ通院を11月から始めてもいつもボーっとして眠たそうでした。

12月に脳の薬は飲まなくてよく、尿や便がしにくい為「マグミット」「ベタニス」は続けて飲んでいました。

12月頃からリハビリに対して不信感を持ちはじめ、リハビリには行きたくないと言いだしリハビリは続けてほしいと思い、ケアマネージャーの白川さんに相談させて頂きました。

主人はリハビリが嫌ではなく、何故病院に来てカードを並べたり、物を隠した所を見つけなければいけないのか理解出来なかったと思います。


「仕事(居酒屋)をする」との思いが強く、ご近所さんにも「仕事始めましたよ」

と挨拶する毎日で、よくお客様から問い合わせのTELがありました。


そんな中、訪問の言語聴覚士、高田先生に週2回お願いしました。


先生は毎回リハビリの後、今日のリハビリの内容を主人に伝え、画像や録音して下さり、

とても主人の事を理解して頂き、素敵な先生を紹介して頂いて

ケアマネージャーの白川さん、高田先生、支援センターの鈴木さん感謝の気持ちでこれからも悩む事、不安になる事、一人で悩まず相談させてもらえる事がとても嬉しかったです。

*この日記は高次脳機能障害からの記憶障害の練習の為にご家族による当時の様子、想いと

御本人による振り返りから構成されています。ご夫婦より多くの方に知ってもらいたい、とのご希望があり、掲載しております。

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